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ありがとう

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ありがとう。


おはようございます。本日は富田翔としてお話させて頂こうと思います。

私は兵庫県神戸市に1987年に生まれ

名前は“翔(しょう)”「世界に羽ばたける大人になれ」という意味で母親:秀子(ひでこ)に名付けられました。この自分の名前は本当にカッコイイと誇りを持って胸を張って言える事。おかんにはずっと今でも感謝しております。

「ありがとう」

私の家族構成は今の時代なら珍しいおとん、おかん、長男、次男、三男で男兄弟の3兄弟全員年子となり私は女の子を待望して産まれた男の子の三男です。

さぞ悲しかったでしょう。笑

私も今は親なのでその気持ちはとてもわかります。

小学校も中学校も富田が三人連続学年でおり、当時はダンゴ三兄弟が流行っていた時に被せて富田三兄弟を学校中で覚えてもらった事を今でも鮮明に覚えています。良い迷惑です。笑

住んでいる所は決して裕福とはいえない県営住宅に住んでおり、三人兄弟で一部屋に三段ベッドで長男はゲーム、次男は勉強、私は長男のゲームを見ると言う日常を過ごしてました。

「うまいなぁ」それしか思ってませんでした。笑

私は勉強も全然せず、宿題もろくにせず、おかんに本当に厳しく怒られ、はたかれ毎日泣いていたのを記憶に覚えています。


そんな毎日を過ごしており、食べ盛りの三人兄弟で食事をしていました。クリームシチュー鍋が机に置かれ、ご飯にかけて食べるという形で私は兄貴二人より食べるのが遅く、いつもクリームシチューが残ってなくて少ない具でご飯をいっぱい食べるという技を身につけました。

そもそも私は身体が二人の兄貴より一回り小さく小食で食べれない事に全然苦だと感じた事は一切ありませんでした。

そんなある日の事です。

小学校には上がるか上がらないかの私の年齢の時に家族団欒での食事中におとんとおかんが大喧嘩、怒鳴り合いをし、皿を投げ合ってました。

バリン

ガシャン

バリリン

大きな皿を投げて割れる音やコップが机から落ちて割れる音、私は怖くなってリビングで怯えてたのを兄貴二人が抱えて部屋に避難させてくれていました。

それから数日たって父親が出て行きました。


いなくなった事も数日は気付かなかったのですが「いなくなった」という事をわかったと気付いた事は記憶に覚えています。


それから二、三日するとおかんが朝はいつもいるのですが夜に絶対いたはずなのに寝る前にはいなくなってました。母子家庭になり、おばあちゃんがスナックを経営していたのでそこの手伝いをしていたようです。


そんな日々が1年ぐらい続いた頃でしょうか。毎日勉強をしない母親に怒られていた私は日曜日になるのを毎週楽しみにしていました。


日曜日になると父親が朝家にきてくれてミックスジュースを飲みに連れて行ってくれてたからです。父親の事を「大好きだなぁ」って思っていた時にある日母親と兄貴二人が泣いていてキャリーバックを持って母親が玄関を出て行ったのです。


私は理解もあまりできない状況だったのですが「もう怒られない」という気持ちになり涙はでませんでした。


その後おとんが家にきて説明をしてくれました。

「おかんは男作ってアメリカに行った。」
「お前らは捨てられたんや」

全く理解もできず
アメリカって何?というような感じで遠くへ行ったという事だけわかりました。


それから約20年


おとんに立派に育ててもらい、25歳になった頃私は半導体製造の仕事に明け暮れていました。
バリバリに働いていた私は役職にもつき同じ職場での彼女もでき良い人生を歩んでいました。

就業中突然会社に緊急放送が流れ、私は事務所に呼び出されました。半導体製造だったのでクリーンルームという場所からすぐでて事務所に行き、アメリカから電話だと上司から伝えられ電話にでると母親の親友を名乗る女性アキからの連絡でした。

「名前はアキって言うんだけどあなたの母親の親友なんや。ヒデコがショウに電話してくれって言うから電話したんよ。」

俺「うん。どうしたんですか?」

アキ「しっかり聞きや。」

俺「はい。」

アキ「ヒデコが今末期の癌でいつ死んでもおかしくないって病院の先生に言われてて滑舌も回らん状態のヒデコがショウに言ったらなんとかなるからって言われて連絡したんやけどこっちにすぐに来る手配できる?」

アキ「まず兄貴二人にも連絡しても繋がらんやろぉからショウに電話してって言われたんよ。」

俺「わかった。なんとかするわ」

状況がしっかりわかった私はすぐに上司に掛け合い全部の有給休暇の消化を使ってでもいいから行かしてほしい。それで辞めないといけないんやったらそれでも仕方ない。って伝え、すぐ上司も上に掛け合ってくれ今までの頑張りも評価してもらえ許可がおりて、すぐアメリカにいく準備をしてアメリカに一番にいきました。


英語もできない私はどうしたら良いかもわからず空港でアキに出会い、すぐさま母親の病院に車で連れて行ってもらいました。


病院に着くと車を降りてアキに必死でついていき病院で「アキが英語で子供だから入れてくれ」と言ってくれて色んな手続きをして入る事ができました。


きた場所は集中治療室でナースステーションが目の前にある場所。
本当にいつ死んでもおかしくないんだ。と思いました。


そこの扉を開けた瞬間。

弱々しい母親の細々とした腕やこけた顔が目に入り勝手に目から涙が溢れてきました。

その後にアキが
「ヒデちゃん?ヒデコ?あんたやったなっ?ショウがきてくれたんやで?あんたの言うた事正しいわ?起きんかいな?」

私はおかんの細々しい手を握った後に更に涙が溢れてきて

「きたぞ。呼んだんやろ。」

それしかでてきませんでした。

その声を聞いた瞬間におかんは目をゆっくり開けて私の顔をみて頬に細い掌を当てて
「ショウちゃん?ショウちゃん?」
と言いながらうっすら笑ってました。

「そうや。きたんや。ショウや。」

私は20年ぶりにこんな母親の姿を見て本当に悲しくなり涙が止まらず申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

しっかり支えてあげれなかった事

病気になる前に気付けなかった事

他にも沢山の後悔と自分の当時の無知さを心から反省し目がパンパンになりながら泣いてました。

それから数日母親の家に帰り日本の味噌汁を作ってやる。という気持ちで水筒を探し味噌汁を作って病院に持っていきました。

とても喜んでくれました。

病院ではラザニアやピザとかアメリカの食事がでてきたりで怒りを覚えて数日たった頃兄貴二人も到着し、兄弟と母親が再会を果たしました。

アキが「あんた夢叶えたなぁ。夢叶ったんやなぁ。信じたらかなうんやで?ヒデちゃん?あんたは立派や?」


体調を崩し始めた前からずっと私達兄弟三人を日本に置いてきた事を後悔して生きてきた事をアキから聞きました。また涙が止まらなくなりました。

全員で泣いていたらヒデコも泣いて喜んでいました。
ほんとに弱々しかったおかんが少し元気になったようで病院中で

「奇跡が起きてる」

「あんな状態で喋れるはずがないし、元気になれるはずがない」と噂になっていたようです。

私達は病院側からすぐに選択を迫られました。

これ以上の処置はない。

抗生物質を飲んでも現在からはよくならない。無理だ。

選択は二つ

死ぬのを病院で待つか?
ホスピスという形をとるか(自宅に運び日常を兄弟三人と母親で過ごすか?)


どちらも「死ぬ」事を待つ方法。

よく理解ができませんでした。

母親が喋れる時に「どっちが良い?」と聞くと

「家でこの子らと過ごしたい。」

「病院は大嫌いだ。」

私達は母親を家に連れて帰り、アキが「あんた大したもんや。すごいわ。夢叶えてずっと見せたかった家も自分で連れて帰ってきて見せれたやん!ずっと言ってたもんなっ!」

こんな事を言ってたんやなぁってアキがヒデコに言う度に心が「ギューッ」っとなる感情がありました。ずっと泣いていました。

それから家族で数日過ごしておかんは少し笑って目を覚ます事は永遠にありませんでした。


兄弟三人でベッドを囲み泣き崩れてました。


「おかん。本当に心からこの名前を付けてくれてありがとう。そして世界に羽ばたける大人になれるようにがむしゃらに頑張るから見といてくれよ。」


本日はプライベート全開の実話を見て頂きありがとうございました。
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